春とサラムーンの個展のこと

雪が溶けて、急に暖かくなってから、あっという間に花が咲き出しました。
梅が残っているのに空には桃や桜、蠟梅、ボケ、コブシに木蓮、足元には人々が植えた水仙からオオイヌノフグリ、スミレ、土筆に、数えきれない花を見ました。良い匂いに誘われれば花があり、早めの藤に顔を埋めて、忙しい春でした。
これが雪国又は北陸の春なんだろうか。

恋い焦がれた春でしたが、その前の冬は寒いのはもうたくさんで、寒いというだけで動けなくなることも多々あり、何度も南国に帰ろうと思ったのです。
この頃の携帯にはひたすら花の写真が並んでいます。くっきりとした青い空に黄色や薄桃、輪郭のはっきりした白。落ちた牡丹の濃い臙脂。若い柳の翠。色々な色が突如現れたような賑やかさでした。ツツジの少し穏やかな色合い、花に小指を突っ込んで(ごめんなさい)、奥にある蜜を舐めてみる。白いたんぽぽ、黄色めのたんぽぽ、春なんだ春なんだ。春なんだ。

あるところで試験を受けてきて、そこで見た春の形は私が慣れ親しんでいる春でした。関東、又は東京地方の春のかたち。芝桜とカタバミと、ヒメジオンと木香薔薇と。地域が違うと春の色も違う。なによりも暖かく、春というより初夏に近い空気で、遠くに土鳩と少し下手な感じのウグイスが聞こえる。やっと日本に来たなあと思いました。実際には随分経っているのですが。

試験の後、銀座でサラムーンの個展に行ってきました。
大学で出会ったサラムーンはしんとした音のない、温度感のないでも柔らかな人の肌を感じさせる写真が好きでした。
今回は、デジタル化されて、はっきりした写真に慣れている目には新鮮で、写真というより版画のような手触りでした。こういうことがあった、以前あったこと、夢の一部分を切りとったような写真で焦点が合わないというより見えなくてよいものを見せない、空気だったり、意識であったりするような何かが消されていて、止められた時間、枠の中に納められた存在を愛でるような印象でした。

私が見たかった春は現実のものではなかったかもしれない。現実の春はもっと流動的で激しくて突如現れて変化していきました。それは今年の気象のせいかもしれない。でもよく知っている、見慣れた春に出会えたことが嬉しかった。