終わりは始まり。

saematahati2009-05-05

帰ってきました。


小泉八雲の庭です。

庭の池にはカエルが飛び込み、小さな輪が水鏡を揺らしていました。
コロコロと響くカエルの声。
植物を揺らす小さな影は次々に現れては消えてゆきました。
彼のお屋敷は今もそのままのように思えました。
蛇が出てきてはカエルを食べてしまう、八雲はそれを見て
自分の食するはずだった肉を蛇に差出し、カエルを食べないでくれと願ったそうです。
今もその蛇が鎌首をもたげて、池をのぞいているような。


前日に旅に出よう!
と思い立って、出雲を目指しました。
こんなに適当な旅は、インドネシアに行こうと思い立った時以来かもしれません。
インドネシアに一人で行った時もそうでしたが
泊まるところは観光案内所で探しましたっけ。(あの時は言葉もできなかった)
今回も駅に着いてから探しました。

出雲大社の後、じつは宮島に行こうと思ったのです。
広島だぞ〜!!!
距離感がすでになくなっていました。
乗り換えは可能だったのですが
出雲市の駅で、乗り換え時間が3分しかなく、乗り遅れてしまったのです。
さて、さてどうしよう?
地図もなく(都内の地図は持ち歩いているくせに)
路線図を見て、「松江」が目にとまりました。
松江といえば小泉八雲
私の大好きな作家の一人です。よし、八雲に会いに行こう。
というわけで松江に向かいました。
本数の少ない路線に乗り慣れないのですがそれはそれ。
麦畑や田植えの済んだ水田、目を楽しませるものはたくさんあります。
でも、宮島まで行っていたら、そのまままた泊まるところを探してしまって
戻ってこれなくなっていたかもしれません(笑)


旅の醍醐味はこの移動時間かもしれません。
普段考えなかったことを考えたり思い出したりしながら
自ら選んだ拘束時間を過ごします。
作ろうとしていたインピーダンスプロジェクト。
流れがよどんでしまって流れていませんでした。
こうしたものに光を当て、風を流していけたような気がします。
ええ、ほんとに何のためにやろうとしているのかがよくわからないのです。
ただ、作る。それだけ。(思えばインドネシアも大した理由がありませんでした(笑))
いろいろ思いおこしながら
相手を思いすぎて自分ががんじがらめになってしまっていたこと
わがままに我が思うままに 動けなかったこと
いろいろなパターンに自分をあてはめてみて、どれがふさわしいか考えていたこと
それが臆病から生まれたものや、自身のなさから生まれたものだったこと
相手が人であれ、出来事であれ、やりたいことであれ。
そのために取り落としてしまったもの、手にしたもの、守りきれたもの、守られなかったもの。
こつこつと考えていたような気がします。


山月記を読んでいて
虎になってしまったことを思いました。
私の中にも、「虎」になりうるものがある。
「虎」になって噛みついていやしないか。
でも臆病になって手も足もでなくなっていやしないか。
旅先で読む本は、何度も読み返している本になりますが
やはりいろいろと思いおこすことになりました。


旅の始まりのような気がします。
実際の日々の生活は変わらないかもしれない。
何かの始まり。
居心地のよいところへ。
連休明けから新天地。
始まりの先には終わりがある。
旅の終わりは留まるところ。
そう、居心地のよいところへ。