ケチャ出現   ハレとケの境目

今日は新宿でケチャを見てまいりました。

ビルの谷間のオアシスにガムランが流れて、ざわめく空気に虫の音。都心ど真ん中に出現した南国の風景は、都心の虫を起こしてしまったようです。

ガムランの流れる音色に規則正しく、ちっちっと時を刻むリズムが会話をしているようで、インドネシアに帰りたくなりました。


生のガムランを聞きながら、ぬるめのビンタンビール片手にとろんとしてきます。うねる響きに金色を煌めかせる踊り手がなびくように舞い、あぁ、初めてみたインドネシアもこんな感じだったかなと思い出しました。
アーティストが演じるのではなく、普通の人が少しだけ、ハレの世界へ飛び出した異空間。
技術を問うのではなく、ハレの出現を共に楽しむ。
どうしても現地を知っていると余計な眼鏡を通して見てしまうのですが、ご一緒させて頂いた方の言葉にはっとしました。

自分が踊る身であっても、人の踊る姿も共に楽しめないのは、あたしなんだか凝り固まってるぞ。
自分が踊る立場の時はどうなんだ、こら!!


踊りはエンターテイメントであるとともに、神事でもある。

アメノウズメノミコトが天岩戸の前で踊って、他の神様が大笑いをしてはやしたてたのを、岩戸の向こうに隠れてしまった天照大神が気になって少し、岩戸を開けてみたら地上に太陽が戻った!
という古事記の話を思い出しました。
このアメノウズメノミコトが日本の歴史上(?)演劇のスタートだという授業を
大学で受けたっけ。
踊りはエンターテイメントであるとともに、神事でもある。
大事なことをつい、おろそかにしてしまう自分に思い当たりました。


ハレとケなのです。


そこにはインドネシアの神様は降りてこないかもしれない。
でも日本には八百万の神様がいて、私たちの一挙手一投足を見守ってくれている。
やっぱりさっき目にしたものは、ハレとケの境目なのだ。
それは目の前で起こっていたことでいっしょになってはやしたてないと
楽しまないと、天岩戸は開かないのだ。太陽は出てこないのだ。神様は現れないのだ。
ひんやりした空気を楽しみながら私が出した結論でした。
お酒の力も手伝って、すごい結末になったと自分でも驚いています。
しらふに戻っても、書きなおししないぞ〜