…のようになりたい、やってみたい。な感覚。

どうにかこうにか、踊りを続けて15年になります。
こんな長い付き合いになるとは思わずに始めたわけですが
そもそもどんな踊りかをよく知らずにいきなり現地に習いに行ってしまったという
不思議な経緯で踊り始めてしまったからでしょうか。
あの人みたいに踊りたい!という気持ちなしに踊ってきている自分がいます。
あの地域の踊りが大好きだから、覚えたい、踊りたい、という気持ちは有りますが
あの先生みたいに踊りたい、というのはないのだなあというのに気がつきました。


きっかけは、沖縄(といっても、本島や奄美です)の唄遊び(うたあすび?)に参加したからです。
伝統芸能である三線
郷土の生活に根付いた唄があり、時に掛け合いのように会話のように紡がれていく唄。
一応「くんくんしー」と呼ばれる楽譜がありますが、譜面にかけない細かなニュアンスは
先生からお弟子さんに一子相伝のように伝えられていきます。
演奏スタイルは、ついた先生によるのです。
演奏スタイルは、その地域に根差したものであり、その個人に根差したものかもしれません。
私の踊っている踊りも、地域に根差したものであり、多くの人々の手を介して伝えられてきた
伝言板ゲームの末端に位置します。
ただ、私はその地域の住民でもなければ、文化圏にも生きていません。
体型も体の使い方も考え方も違うよそ者です。
よそ者ゆえに、自分の体を使って出力する際、私ならではの何かを足していきます。
伝統芸能は、その枠を踏襲しつつその枠内なら、自分の個性を生かしていけるものだ
というように思います。さすが時間をかけ、人の手を経たものだと感じ入ります。


あるライブを見に行ったときに、
ある方のお弟子さんも演奏していたのですが、ある方の演奏スタイルとそっくりでした。
音も、指先も、そして表情さえも。
立ち方、楽器の持ち方はわかる。音楽の解釈もわかる。それは伝統芸能でもおなじこと。
でも、表情まで似ちゃうかな。
リズムを刻む時の首の動かし方、眉の動かし方(そんなとこ普通、気にしませんけど)
ちょとした口元まで。
ああ、この人は心底ある方に惚れ込んでいて、そんな風になりたい!という思いが強いんだなあ、
と思ったのです。それをある方もよしとされているんだなと。


踊りの先生が、習い始めに私に告げた言葉があります。
「あなたは、外国人で文化が違って、体つきが違って、大きくなってから
この国の踊りを習い始めることになった。どんなに努力しても私たちのようには踊れない。
この地で結婚して、子供を産んで、こちらの文化にどっぷりつかってやっと
それらしく踊れるようになるだろう。それも一生かかってできるかどうか。
だから、あなたらしく踊るようにしなさい。技術は学ぶことができるだろう。
アウトプットは、あなたらしく出しなさいね。」
結構残酷なことを言われてます(笑)
最初から頑張ったってできないよって言われてるんですから。
でも、今その言葉がありがたくもあります。
踊るということと自分、ということを常に考えます。
私だからできることを考える。そして教える立場になった時
その人の美しいところを引き出せたらなあと考える楽しみもある。


…のようになりたい。
からの解放って、結構大事かもしれません。