Neighbor を見てきた 続き 初めて会った人に自分をあずけてみる

会場でペアを決めるのですが、私は一人で来ていたためどなたかに相手をお願いすることになりました。

公演を見ていて、1公演3組かな、体験出来るのですが、他の体験者の方々はお互いパートナーの方が知っている人でした。家族や友人だったと思います。私は体験するために早くから待っていた若い男性の方と一緒になりました。この方で良かったなあと思います。何か安心出来そうな、自分をあずけることができそうな気がしたし、あずけていました。

視界の制限に対してあまり違和感がないのは、伝統舞踊で仮面の踊りを踊っていたからかもしれません、仮面をつけて踊ることはほぼ前が見えないようなものもあり、動きをコントロールしつつ、仮面に踊り手がその仮面になる作業が発生します。

私は視界の制限されたことでパートナーの手の温かさ、重さが通常より実感できたことが大きかったです。耳からくる情報、人の気配、温度、ダンサーが近づく足音、通り過ぎていく風、目から来る情報に安心して没頭出来るくらい、目以外の情報がわたしを包みました。目から来る情報は疎外感というか、さみしい感触をもたらすものでしたが、それを安心できるところから虚構の物語を体験出来るような。現実に見える世界と物語から送られる作られた映像の切り替えも境に気がつく、それでも全部ひっくるめて一つの物語に集中しました。
自分の足がみえないこと、自我が宙に浮いているような感じでしょうか。他の体験者の方から後で怖かったという感想がありましたが、怖いという感覚が全く私にはなくて。ずっと手を握っているわけではないけど、気配、存在がそこにある、その方もまた同じ体験をしている、共有している。一緒に旅をするような安心する時間でした。
踊り手にも身体を渡すことがあり、パートナーと手を繋がれるよう動かされたり、手を握ったり。長いようで短い時間、パートナーの存在で異空間から戻ってきた時に、パートナーの方の手を改めて再実感して握り返しました。ハグしなかったのはこの体験が日本だからでした。インドネシアならハグしてたかな。

わたしが体験したことがパートナーも同じように体験していたかどうか。それはまた別のお話になると思います。わたしはこの方で良かった!とどれだけ安心できたか、異空間の旅を楽しめたか、時間があったら伝えたいくらい、安心する時間だったのです。それはわたしが感じただけで、パートナーの方はどうだったんだろう。知らない同士だったのでわかりません。
観客としてこの作品をみると、体験者が装置になり、演者になり、無防備なくらい感じているなにかをさらけ出すような時間もありました。ただ立っているだけなのに、体験者それぞれがそれぞれの物語の中で生きている。踊り手が正確に物語を繰り返しているので、体験者の反応がそれぞれ違っていることが見えてくる。色々な体験者や観客の方と話を聞きたかったと思います。体験の後、作者である藤井さんとのディスカッションもあったのですが、もうちょっと聞きたかった。

もう一度これを体験してみたいか。違うパートナーの方だったら体験したい。振り付けが違ったらどうだろう、観客として先に鑑賞して学習して体験しているので、全く知らないで体験したらどうだったんだろう。考えることがたくさんある体験でした。