死んじゃうこと

いろんなことが重なってということでこんな話が出てきたのですが
わたしがかの地にいたとき、よく人が死んでしまっていたのです。
その話をしていたときに、「ずいぶん簡単にしんじゃうということを言えるね」
と言われたことをちょと考えました。


私はかの地にいたときに、あちらの人たちがかかる病にかかっています。
チフスデング熱。さすがにマラリアは地域が違うからかからなかったけど
チフスは入院しました。デング熱は日本のJAICAの方に助けていただきました。
チフスはひどい下痢を繰り返します。日本であればちゃんと病院に行けば
治る病ですし、デング熱はまだ(と書いてしまうところに温暖化などで日本にも
いつか来てしまいそうな気もしますが)日本には入っていないし、栄養管理や環境を整えて治る病です。
こういう病で死んでしまう人たちがいました。
それから甘くて油が多くてといった食事で糖尿病になってしまう人、
人工透析が必要なのに、その費用がなくて(保険もありませんし)あきらめてしまう人たち
交通事故や地震。病院の費用が払えなくて、骨折をほったらかしにしていたら
曲がって骨が付いてしまった人。そのほかさまざまな形で現世を抜けていく人たちが多かった。


ジョグジャカルタという町にいましたが、だいたいお昼過ぎ2時過ぎくらいかもう少し後かな。
町の近くの大通りはお葬式の車に出あう時間でした。お墓に行って埋葬する時間帯。
結構出会うことが多かった。デング熱がはやった時、ちょうど乾季のとき
毎週のように村でお葬式があって、午後の練習を自主的にやめた時期もありました。
午後はお葬式の準備を手伝ったり、日本で言うお通夜につきあったり。
そういえばあの子供、最近見ないと思ったら、お葬式に立ち会ったり。
こんなに人は死んで行くのだな、身近に死ぬことは存在しているのだなと当時よく考えました。
「またね」なんて言って練習が終わって別れたら、交通事故でその夜、その子のお通夜に行ったり。
動物が死ぬように、植物が枯れるように、人間も死んでしまうのだ。


環境が変われば、死んでしまうこともある。
もちろん自分が死んでしまうこと、その瞬間を迎えることは恐ろしいことだったり怖いことかも
知れませんけど、人間もまた、「死んじゃう」のです。動物が死んだり植物が枯れるように。
日本に生活していると、この「死んじゃう」ということを認める感覚は異様かもしれません。
でもこの感覚に気が付いてしまったのです。垣間見てしまった。


うっかり口に出すことではないのかも知れません。
でも「死んじゃう」ということはいつも私たちのすぐ近くに存在していて
その存在を認めてみると、生きていることがさらに楽しく思える気がします。