いろんなことに手を出す、口をだすのは

私が学生のころ、
「自分の好きなことを見つけなさい、見つけたらそれをやってみなさい」
という“自分探し”を勧められるような時期がありました。


自分の中核となるもの。
自分を支えられるもの。
ということなのかな。


小学校のころから演劇がやりたい!
と言って大学までそうした学校へ行ってしまったのですが
それが自分の軸となるくらい好きだったかというと
疑問です。
自分の俳優としての素質はない。
ということに気が付いていたのに何か続けていればなんとかなるかも。
が本音です。
大学受験の時、演劇をしている自分、というものが信じていいかわからなかった。
どうやったらやめられるか。
ということを考えながら、それでも自分の好きなことだからと言い聞かせていたと思います。
じゃあ、路線変更できるかというとそれをする勇気もない。
かんたんに別の何かに譲れてしまうようなものだったと思うのです。
ただ、譲る方向がなかっただけ、またはほかの世界を知るチャンスがなかっただけ。


ものを作る楽しさはあります。
共同作業で何かを立ち上げていく作業は魅力です。
また、自分で用意していかなければならない作業でもあります(俳優さんだけでなく)
卒業して、劇団に入ってはっきり理解したのは
ある組織の中で、私は順応可能かどうか。
そしてその組織に愛があるかどうか。
その結果と中身はさておき(笑)


時間がそれなりに過ぎて、見るもの聞くもの体験するものが増えてきて
自分の好みやら性格やらを鑑みることがでてきて


今はインドネシア舞踊というものを教えたり踊ったりしています。
でも、これさえも可変可能なものなんだな。
踊るのも好き、教えることで学ぶこともたくさんある。
その踊りがどんなものか紹介するのもすき。
好きだけど、他のものにも興味がある。
知りたいこと、体験したいこと、まだ出会ってない何かに期待する。


機織りであったり、こまごました物を作る。職人さんのようなことに身を投じていたら
それはそれで、またかなり長続きをしていたことでしょう。
それこそ傍目からは、一生の仕事。
というように見られていたかもしれません。
いや、見られていたかも、ではなく、
今でも何かのきっかけで、なにか、ものつくりに進んでしまっても全くおかしくない。


自分探しは見つけることが最終目的ではない。
どんなものでも(それがお勤めであっても、自分がしたい一生の仕事であっても)
どんなことでも興味がある、知りたがる私がいる。


この知りたがりの私は
この先もいろんなことに手を出し、口を出し、聞き耳を立てていくのでしょう。
それと
こつこつと他を気にせず気にかけず、何かを形作りたいという
欲求だけで何かを作っていってしまうんだろうなとも思います。
知りたがりの私と、ものを作っている私は
時として正反対に立っているようにも思うのですが
それもまた、いつでも変化の時を待っているように思うのです。
もしもぶれない何かがあるとしたら。
それは「好奇心」です。