体験すること。身に覚えがあること、ずっと。

今日は、久しぶりの江古田クラスのお稽古日。
2か月開いてしまったから、ちょっと不安とドキドキと。
お稽古を始めてしまったら、そんな不安はどこかへ行ってしまうのですが。


江古田クラスのお稽古をすると、いつも考えるのです
踊るって何だろう、楽しむって何だろうということを。
美しく踊る、珍しい踊りを踊る。伝統を丁寧に踊り上げていく。
色々あるけど
江古田クラスのみんなは、その踊りを楽しんでしまう
ということがとてもはっきりしているのです。
踊りは儀式のためのものがあり、物語の強いものがあり、そうでない装飾のものもあり
さまざまな分類がなされるものですが
儀式のような素朴な踊りであっても
物語がはっきりするものであっても
「なりきっちゃって踊っちゃえ!」
というような、見ていてこちらが引き込まれてしまうような、笑みがこぼれてしまうような
不思議な力が満ち満ちているクラスです。
素朴な踊りはその素朴な民族になりきってしまうような。
物語のある踊りを今とりあげているのですが
そちらの踊りは、踊りというより、お芝居になってます。
そしてその、想像の豊かなこと。
この生き生きとした感じを残しつつ、踊りの型も整えていく。
わぁ、あたし、すごいことに手を貸してる。
壊さないように、そして守りすぎないように。


たまたま、「踊り」というメディアであるが故の制限があります。
でも、この制限のおかげで物語は明確化され、製作意図がはっきりしている。
国が違っていても、文化が違っていても
意図というのはちゃんと通じる。
江古田クラスのアンテナは、この「意図」にとても敏感なのだと思います。
ある素朴な踊りを初めて人前で踊った時
それは野外のステージでした。
踊りの中で、階級が存在し、頂点である神様の位置を示す振りを舞った時
「空が見えた!」と興奮していました(上を見上げるのです)
これは屋内であれば感じることができない。
この空は、その時に広がっていた青空だけでなく、別世界の空でもあったと思うのです。
その一度の体験が、
次に踊る時、この先踊っていく時に
「この動きの時に、空が見えた」と体に記憶されていく。儀式のように。


少しずつ踊りを覚えていって、体になじませていって
やっと気持ちよくなじんだころに、つぼみが開くように踊っていくことも素敵です。
ほころびかけた花びらのように、笑顔が自信とともに広がっていく。
型どおりの動きに伸びが出てきて、その人らしさがにじみ出てくるように踊るのは
上大岡クラスのみなさん。
私はどんな風に踊ってきたんだろう。
踊りなれてきた踊りは、自分でも予想しないような表情で今、踊ってるよなあと
呆れながら踊っていることがあります。
笑顔で踊っているのに、曲によって(地域によって)なんだか表情が違うのではないかと
筋肉の動き具合から感じるのですが
自分で踊っているのを自分で見ることはできないので(笑)


分からなくていいものもあるんじゃないかなと
自分のことは棚の上においておこう。