誰かになることと、わたしのこと。

誰かになること。
誰というのは、漠然としている時とはっきりしている時とあります。


踊っていて、
誰か(または何か)になることを思います。
誰か、というのははっきりしていませんが、私ではないものなのだと思います。
伝統芸能というものは多くの人の手を経て完成されて生き残ってきた文化だと思います。
いつでも消滅の危機はある。
時代背景によって消え去っていくものでありますが
初めはその時代の最先端をいくものだったはずです。新作!という期間があったはず。
そこからいろんな人の手に渡りつなぎ繋がれて今に至る。
型というものが確立されて(すべてではありませんが)そこに身を置き
型の中で踊っていく。

その型は「誰か」になります。
その誰かの中に一時自分を置いてみる。私を置いてみる。
わずかな時間ではありますが、浮遊感のような自分でない何かの体験をすることがあります。
どの踊りを踊ってもそうなるわけじゃない。
時間をかけて何度踊ったかわからなくなってしまったような踊りの時にひょと感じます。
この「誰か」は漠然とした誰かです。


はっきりしている時もあります。
それは例えばある仕事や役割を引き受ける時。
役目としての「誰か」をどなたかから一時的にしろ恒久的にしろ受け継ぐわけで
できるならば、「誰か」を継承していきたいものです。
そのためにできることはなにか。
ということを覚えつつ考えつつ、その人ならばどうするかということを予想しつつ。
できれば、そうして繋げられたものを元の方にそのまま返してあげられるように。


ということをやっていると
わたしのことって。ということも考えます。
なんだかんだ続けてきたのは、ちいさな手仕事。
これは私が作ったものなんだ。
という実感のあるものです。失敗しながら続けてきてたまに「やった!」というものと
出会ってみたり。
夏の暑いさなかにこちこち作ってきた小物たちを
一日だけのお店で販売してみて、予想外に人手に渡ったことは
わたしのこと。として嬉しいことでした。
その小物たちを初めてお店に置いてもらえるようになったことが
わたしにとってどれくらい嬉しいことか。
いっしょに歩いてくれた友人に感謝します。
アイディアと勇気と忍耐強さと。一人じゃそこまでできませんでした。


はたから見たら
「?」というくらい大したものではないかもしれません。
たくさんある中のちいさなちいさなものたちです。(二人の手仕事は同じものがありません)
置かせていただいたお店も、いつも踊りにいっているくんくんしーらやです。
身内といえばそうなのですが。でも嬉しいことなのです。


誰かになることと、わたしのこと。
この二つが両立しながらずっと続けていけたらなと思います。