離れたひとをおもう時

インドネシアから帰国してから、もう9年になります。
あの、9.11のテロがなければ、インドネシアで働いていたはずで
どこかのタイミングで
インドネシアに10年以上いるなあ」と思い返していたかもしれません。
テロのおかげで結果的には良かったものもあるし、どう転んでいたかわからないものもあるし
9.11という日は、世界と私はつながっていたものだったと
大きく思い返す日になっています。


日本に帰国してしまったせいで
会えなくなってしまった友人や恩師がいます。
いや、会いに行けばいいじゃない。ということもあるのですが
かの地に行ってしまった人たちには、私がかの地に旅立ってからでないと。


毎年、自分より若い人たちを送っていったこともあります。
遠く離れた日本で旅立ってしまった友人達を思いながら、葬儀にも参列できずに
ただ、その人のことを考える。
もう何年も前に旅立ってしまった友人のことを今でも思い返す。
せめて同じ時間軸にいたら、どんな話をしていただろう。
先月、私の先生が亡くなりました。
トポさん、といいます。


トポさんは、私がインドネシアとつながり始めてからの付き合いになります。
初めてのインドネシアである方の世話になってジョグジャにいたのです。
大学に行くことになって、手続きの書類や大学の先生に会って…と準備をして
帰国をする当日、ある舞踊団の朝の授業に連れていかれました。
創作の授業で、生徒たちは即興で踊ったり、振付作品の過程を公表したりしていました。
竹を渡る風の音。近くの川のせせらぎ。掃除をする箒の音。
私はただただ授業を見ていました。言葉も分からない。わくわくするわけでもなく
からっぽな状態で見ていたのだと思います。
授業の後、声を掛けられて、バゴンさん(この舞踊団をまとめていた先生です)に
「3ヶ月後に新しいカリキュラムが始まるから、その時に来なさい、書類はこれ」
とあっという間に話が決まってしまって、よくわからずに
「はい」と答えて入学が決まってしまったのが私のインドネシア生活の始まりでした。


トポさんは、その創作の先生でした。
各地から来る生徒のために、うつくしいゆっくりしたインドネシア語で話し
舞踊の創作の初心者を大事に育てていました。
もちろん、古典、伝統舞踊を守ることにも熱心でした。
守らなければいけないものは守る。発展させるものはちゃんと原点はこれ!といえるように。
そして原点は守っていく。
原点があるから、新しいものも作りだしていける。新しいものがあるから原点も生きていく。
私がトポさんから学んだものです。


インドネシア語の話せない私に辞書を引くことを勧め、私は常に持ち歩くようになりました。
言葉がわからないと言っても、与えられる課題はみんなと一緒。
舞踊を鑑賞した後、感想文を日本語で書いてしまってインドネシア語に訳す時間がなく
日本語で提出したら、私だけが提出。(みんな用意してなかった)
みんなの前で日本語で読みなさいと言われ、読んだ後に辞書を引き引き翻訳作業。
必死でした。
即興で踊る時、課題が与えられるのですがその課題が聞き取れなくて辞書を引きながら
理解して「さあ!」と思ったら時間切れ。よく悔しくて泣いていました。
振付作品を作れば、作品のことを書き出す論文も提出します。
これもインドネシア語で、踊りよりもこっちのほうが大変で、みんなの寝ている時間に
こちこち辞書を引き引き書いていました。提出しても間違いがあればまた直し。
言葉で悩み、そのうえで課題をみんなと同じペースでこなす。
よくくじけなかったと思います。それはトポさんをはじめ、舞踊団のスタッフが
根気強く付き合ってくれたからです。
踊り手として初めて参加した作品の時、意味がわからなくてキョトンとしている私に
「UKI,buka kamus!」(うき、辞書を開け!)と声をかけ
トポさん自身は振りつけをしたり、指示を出しているのに、作品について説明をしてくれる。


トポさんと授業が終わってお昼御飯の時や夕方に話をするのも好きでした。
煙草の好きなトポさんは、事務所の前のベンチで煙草を吸いながら
日本に行ったこと、今考えている新作のこと、踊りのこと、言葉のこと
いろんな話をしてくれました。今の私を支えてくれるインドネシアの雑学に至るまで。
ゆっくりとした口調で分からなければ分かるように説明をし、ときどき冗談を入れ
辞書を指し示しながら(いつまでたっても辞書生活でした)話をします。
そして、一緒に踊りを見に行って(もちろん解説付き)もらったり古典音楽を聴きにいったり
公演の手伝いに連れて行ってもらったりしていました。
お子さんの踊り(仕事)デビューも見に行っています。今では美しい踊り手です。


トポさんが亡くなって、一緒にいたころを思います。
もっといろいろ聞いておけば良かった、一緒に踊りたかった、日本に連れてきたかった。
でも、そのことを後悔もしません。
一緒にいた時間が宝物のようです。
亡くなって10日目、40日目、100日目、1000日目が供養の日。
まだ40日もたっていない。供養の日に立ち会えない。
家族の付き合いでしたから、奥さまや子供たちも恋しい人たちです。
色々約束をして、かなえられたこと、かなえられずに別れ別れになったこと
お互い胸の内に収めていたこともありますが
40日たっていないので時々思い返すと、まだ思いがつながるような気がするのです。
bagaimana ya pak?
saya lagi agak susah hidup,tapi walaupun susah, baik nya saya usaha dulu kan?
私の取りえは、努力すること。
とトポさんはいつもほめていてくれました。
どうせやるなら全力でね。やった分だけ、仕事量だけ結果がでる。
ずっと私を見守ってきたくれたひとの言葉です。
新しいことに向かう時、そこで混乱と戦う時、いつもトポさんなら何というか考える。
ちょっと会いに行くには遠くなってしまいましたが
トポさんなら私にいってくれると思うのです。
uki,berusaha semakimal mungkin.meyakinkan dirimu.pasti bisa!