見たい、知りたい、見たい!

という病気が顔を出してきたような気がします。
ポかリン記憶舎の「冬の穴」を見て
ゴダール映画祭で「気違いピエロ」を見て
山海塾の「時」を見た一週間。
それぞれに色々考えたことも、思い出したこともあります。
共通するのは過去に興味を持ったものです。


ゴダールは大学の時映画の授業で衝撃を受けたものでした。
結果の見えているものを(予想できるもの)、生きる、ということを
ごまかさずに見据えた時に演じるもの、具現化させるもののすれ違いを
ひょと考えました。
学生の時、私は何を考えたんだろうか。
ジェットコースターのように進む物語の中、描かれていない時間を想像していました。
停滞の許されない、踊り始めたら倒れるまで踊り続けるような
走り出したら止まっていられないような、焦燥感のような。


山海塾は舞踏に触れたきっかけでした。
無くなってしまったセゾン劇場で上演されていた時足を運び
踊る、舞うということが想像しなかった身体言語でつづられていたことに
驚きました。自分で踊るようになってみて、
わずかでも作品を作るようになってみて、何年も前に見たはずのものに
強く影響を受けていたことを思い出します。
もうあれからどれだけの時間がたってしまったんだろう。
舞う人々も入れ替わりがあり、改めて目にしてみると
円熟したような安心感があります。再演だからでしょうか。
来年の新作が楽しみです。


母国語以外の言葉が知りたい。
世界で起こっていることが知りたい。
おこっていたことを知りたい。過去から未来に続く時間を知りたい。
なぜ、人々がそこに至ったのか、どうなっていくのか。
世界を動かす原動力になるような大きな流れから
長い時間をかけて保存され守られてきたことから
いろんなことを知りたい。
というのはちょとした病気の前触れです。
なるべくかからないように努力してきたのですが
たぶんかかってしまったのだと思います。


この病気にかかると、自分のアンテナに引っかかるものすべてを知りたくなるし
覚えていたくなるし、貪欲に探してしまうかもしれない。
はたから見れば、なんでそんなことに興味を持つのかわからない、
どうしてそれとこれとがつながっていくのかわからない、
目に見えるもの、耳に入ってくるもの、自分が体験するもの、
どんどん取り込んでいって何にするんだかわからない。
そもそもどうしてそれが面白いと思うんだかわからない。


ちょと人に言われたのです。
なんでそんなこと知ってるの?って。よく覚えてられるねって。
その時に病気の発症に気がつきました。
かなり要注意です。
心臓がばくばくするなあとかなりの危機感を感じました。
日常を穏やかに過ごしていくためにはあまり必要のないことなのです。
知られないほうがよい病です。
この病気の厄介なところは、取り込むだけ取り込んだら
熟成させて発酵させて
いつか取りださなければならないからです。
取りだす形がどんなものになるかはわかりません。
かの地にいた時は創作、という形で取りだしていましたが
日本にいる今、どんな形になるんだか見当もつきません。
いつか取りださないと、つらくなってしまうだろうなと
取り込み状態のうちから心配してしまうのですが
腹をくくって取り出しの時期を待とうと思います。


伝統舞踊を踊ることは楽しいし、発見もあるし、自分と向き合うこともあるし
なぜこれを人々が踊ってきたのか、作ってきたのか、必要としてきたのか
想像する楽しみがあります。
型という入れ物の中は、自分をはめ込むことによって
自分という既成概念から解き放たれた普遍ともいえる美しさに出会えることがあります。
自分で何かを作る、という作業は
型のない足元の見えない何かに向かうことになります。
その作業に耐えられるかな。