追いかける と 追いかけられる

少し勇気のいることを書いておこうと思います。
このブログは、基本的には日記であること。ただ公開していることもあります。
そんなに人目に触れるものではないにしても
少し勇気がいるかなあと思います。今、自分が考えていることについて。


日本という国に生まれて、いろんなことがあってインドネシアで働き始めました。
ともに働く人たちは、国籍が違っていてもとても真摯に仕事に向かっています。
私の会社だけではなく、インドネシアは今、高度成長期であった日本のように
(その時代に生まれてはいませんが、想像で)
働く→成長するという流れをつかんできたように思います。
世界で情報が共有され、瞬時に遠いところの最先端情報が伝わる。
日常の中に取り込まれたこの技術のおかげで、条件さえ整えば、世界のどこでも
同じものを共有することが可能になってきています。


私はあの地震を体験して、原発事故の恐ろしさを体験することになりました。
そして日本からの原発の輸出に関して、議論もあります。


大変危険なものと隣り合わせで生活する人々がいること。
でもその技術を取り入れたくてたまらない人たちもいるということ。
これから伸びていこうとする国にとって電力の安定は、大きな課題です。
原発はその安定化をもたらす一つの手段です。
危険なこともよくわかる。それが武力衝突などで悪意に使われた場合、天災に見舞われた場合
取り返しのつかないことになるかもしれない。
それでも、目の前の先進国と呼ばれる国の人々の生活を
お隣の庭のように見ることができるようになった今、
リスクがあってもいいから取り入れたいという人々の意見を、先進国に生まれた人々は
否定をできるのだろうか?


ヒトの欲望を抑えることは難しい。
そのためにヒトは宗教を見いだし、国を作り、約束事を制定してきたと思うのです。


先進国と呼ばれる国ができること、または原発を稼働させるだけの技術力を持つ国が
できることは、さらに原発の技術を発展させ(できれば全力で)
使い始めから使い終わりまで、いかに安全に使用し、
環境(ヒト、その他の生物を含む)への負担を減らす努力結果を
後進国と呼ばれる原発を使って発展をしていきたい国に、提示することだと思います。
もしかしたら、原発を使用せずに、安全で安価なエネルギー供給するものを提示できるかも
知れません。
追いかけられる先進国と呼ばれる技術を持つ国、追いかける背中が見えてきた
伸びていこうとする若い世代の国。
もし、この構造をそのまま維持したいのなら、この方法かなと。
構造を維持したくなければ、生活のレベルを落としていく。追い抜かれても追いかけずに。
おそらく、原発だけではなく、ほかのことも変わらないような気がします。
また、そこから何か新しい世界を垣間見ることもあるかもしれません。
全く違う何かに出会うかもしれません。
それはやってみなければわからないことだけど。