教会と中華系インドネシアの人々

教会に行ってみました。

朝、8km位走って、洗濯をして、10時から始まるミサに行こうとしていたのです。
思えばカトリック教会に行ったことはあるし、ミサも出たことがある。素敵なアカペラのコーラス、ガムランと一緒のミサなど、インドネシアジョグジャカルタならではの教会を堪能する機会に恵まれていました。


そういえばプロテスタントの教会に行ったことがない。
ジャカルタで教えてもらったところなのですが、まず、場所が教会じゃない。ビルの中の多目的ホール
いきなり英語(笑)
LIVEの音楽、ポップスです。
今日は収録日か⁈


教会って⁈


会場が広過ぎてモニター使用はわかるけど、こんな音楽だと踊り出しちゃうんじゃないかしら?
(何故かここで、踊り念仏のことが浮かぶ…)
流石に踊る人も揺れちゃう人もいないところが教会。歌いやすいメロディラインで繰り返しも多いので字幕を見ながら歌えます。声を出して歌をうたうなんて久しぶり。声をだすのが気持ちがいい。
インドネシア語、英語の歌があって、英語のリズム感てこれか〜っと納得しながら参加しました。


牧師さんのお話はイギリスからの牧師さんで、英語にインドネシア語の翻訳を聞くことに。
英語で結構笑いがあるということはかなりの割合で、参加者は英語が理解できていることになります。
周りは華僑、中華系インドネシア人がとても多い。おかげでわたくし、ちっとも違和感がありません。


ひょと考えたのですが、声を出し、一体感を持って歌うのはストレスのはけ口になるな、ということと
友人の中華系インドネシア人の会話を思い出したのでした。


彼は華僑です。子供の頃、中華系文化は否定され、たしかパスポートは別、国立大は入れないなど、弾圧という言葉が合うかどうか分からないけど、否定されていました。
儒教が認められず、流れた先の宗教はキリスト教でした。世界共通語の英語を理解し世界に広がる華僑。しかしながら華僑であっても、中国語が話せない。母国語はインドネシア語インドネシア国籍であっても、pribumi(インドネシア産の民族を指す)ではない。
中途半端というか、浮いている存在。
その抑圧されたような環境で生きてきた人達にとって、教会は心のよりどころであり、歌を歌い、声をだすことで、現状からの解放感や一体感を得られる場所だったのではと。


ロックというか、ポップスというか。
時代に合わせた賛美歌を歌う人々を見ながら、踊り念仏を思い出した私の発想は、おかしくないかなと思っています。救いを見出す方法が、タマシイの解放へ向かう方法。


ジャワのガムラン賛美歌は、絶品だと思うのですが、これはこれでまた、楽しめるものでした。