クリスマスと寛容さ

22年前のクリスマスはインドネシアのJogjakartaにいて、初衣装係として教会のクリスマス行事に呼ばれていた。キリスト誕生の物語をガムランの音楽とともに踊る人々を見るなんて、なんて不思議なクリスマスだと思った。四季のある国から見たら、雪のないクリスマスもおかしいと思いつつよく考えてみたら、そもそもクリスマスも時代や場所に合わせて対応しているのだからインドネシアキリスト教が伝来したら、ガムラン流れる厳かなキリスト誕生物語もおかしくない。
群衆劇のキリスト誕生物語を横から見ているのは興味深かった。練習からずっと見ていたので言葉がなくても、どの場面であるかわかる。インドネシア語、ジャワ語の語りが入るけど、当時の私では聞いていても難しくてついていけない。言葉がわからなくても、物語が通じるよう子供でも少し大人が解説してあげればわかるようになっていたのではないかな。


エス様はとある王家の血筋の方が受け持つ。凛々しいが優しい役どころをこなす彼はイスラムの人で、半分以上の踊り子や演奏家イスラム教の人達だった。
こういうところが好きだった。隣人として互いの宗教観を尊重するところが。
インドネシアの国是とされている中に、Panca Silaというものがあり、その中にも互いの宗教を尊重することが明記されている。それが目の前で実践されている、または日常の風景になっていることが長期滞在してもよいと思えるようなことにつながったんだと思う。どの宗教でも認められる安心感。無宗教でも、神道でも。


美しい声のアカペラチームが教会の讃美歌を練習していて、その中にもイスラムの人がいた。人口の90パーセント近くをイスラム教の信者が占めるといわれているので、歌が好きでという人が讃美歌を歌う人がいてもおかしくない?のかなとも思う。
対立ではなく尊重を、そして尊重すること自体が特別なことでもなく、日常になっていたこと。


この時期になると、ガムランの音に合わせて歌われる讃美歌をもう一度聞きたくなる。
教会もプンドポと呼ばれるジャワ様式の教会だったと思う。
わからないなりに美しさやメロディを聞きこんでいた時間。


Selamat Natal!

続いてきたこととその結果

インドネシア語を話すようになって、20年以上たつのにまだ能力が低いなあと思う。。
私のインドネシア語は良いほうにも悪いほうにもとれるかもしれない。
ジャワ語なまりは抜けない(状況に応じて頑張れば目立たなくはなる)
語学のために勉強した言葉じゃない。
現地で伝統芸能を学んだ結果の副産物。
といいたいけど、それでも20年はいろんな使い方をしている。
通訳や翻訳といった仕事として使うような場面も増えている。
それでも時々とても焦る、もっと勉強しなければ。
勉強することが増えて時間をなかなか用意できないけど。


そう思うことと。
新しい言葉を覚えようとしているところでもあるので20年も続けてみたら
こんなにできるようになっったんだから、新しい言葉もゆっくり続けていくと
少しはできるようになってるよ、って続けていく意欲の源でもいいかな。


ネガティブな気持ちに襲われるのは、今日が冬至だからだ。
赤道の近くにいても、日本にいてもどこにいても
日照時間が短い日だからだ。
明日からは少しずつ日が伸びていく。
落ち着こう。

地域差、世代間、いろんなことの違うということ

海外に住んでいると、最初から外国人なので違って当然というお互いの認識があるのですが
同じ日本国内だと、地域差や世代間(親の地域、世代も含む→育てられた環境)が違うことを
あまり認識していない人もいるのだなと思います。
違うから拒否というより、違うことを認識するだけで否定とか距離を置くとかではなく
違和感を楽しむ、なぜ違和感があるのか考えてみるということをしています。


職場で聞く方言。
職場でこんなに方言って使うんだと思いましたが、私が外から来た異邦人なので
私が標準語的な言語を使っているけれど少数であり、私のほうがその土地の人から
みたらよその言葉を使っている。ならば対処の仕方もある。
前後を聞けば話の流れはわかるけど、部分部分、すっきりしない理解の言葉があり
それを聞くこともでない時は、(会話が完了)インターネットで検索、納得でもいい。


夕食を招待され、ちらし寿司をごちそうになりました。
美味しかった!けど具が慣れ親しんだものではなく、地域で違うんだなあという思いを
心の中にしまいながらいただきました。
自分の体験した地域と違う!ということを言うと否定しているようにとられる経験が
増えてきているからです。
最初からお互い違うもんね、で始まると違いの中から共通点を探したり
違うことから生まれる好奇心などで話が盛り上がったりするのですが
同じ国の人同士だと難しいという印象です。
同調していないことが拒否ではなく同調しないことでお互いの理解を深めていくことが
できると思うけど。


海外生活をしてきてよかったなと思うことは、同調しないけれどお互い敬意をもって
接してもらったこと。多民族の多宗教の国であるインドネシアは時に互いの差異のために
緊張があり、衝突もあったことがありますが、(この先様々な可能性もはらんでいますが)
お互いの宗教観、民族観、地域観を尊重しながら生活をしています。
暗に、キリスト教徒(華僑)とイスラム教徒の緊張が顕在化した時
「異教徒!」と知らない子供達に声をかけられることがありましたが
「異教徒」である私は異教徒として違いを理解した上で、その地域に通い続けました。
通う「異教徒」をその地域の人達はどんな思いで私を見ていたかわかりませんが
立ち話や挨拶を交わす関係でした。



違うことが敵対心にならないといいなと思います。

Processingを始めてみた

いつまで踊っていられるのかなあと思うこともあり、今からできる体を使わないことを
考えてみました。
Generative Designという美しい本を買って、これがProcessingというプログラムが
使われていることを知り、じゃあやってみようと思ったのです。
今までやってみたことのない分野で、できるわけないと思っていたのでできなくても安心。
後ろ向きにスタートしました。


使っているのは「Processingをはじめよう」という本です。
プログラムとかMaker関連の本には独特のレッドとブルーが使われているなあと思います。
赤と青。これって動脈と静脈のシンボルなんだろうか。新しい生きていく何かを支える色。
科学、技術を示す色のシンボルカラーなんだろうか。

プログラミング言語という言葉がありますが、新しい国の言葉を覚えているような感じです。
これをするには、この文法を使うの、というような感じです。この国の中に入るため、
コミュニケーションするための言葉=方法を覚えていくのかなと思いました。
言語、地図を読んでいくという気もします。
何もないところに場所を作って、そこに何かをどこにどうやって置いていくような。
色々たとえられるような気もしますが、この言葉を覚えてみようと思います。
初めて画面で丸が描けた時はうれしくて声が出ました! 
(ABCのAが描けたくらいなんでしょうけど)


仕事でもない、趣味にもなっていない名前のない何かなのですが
もう少しこの言葉に慣れてみたいと思います。

球体人と

今年のSingapore Maker Faireで出会った丸い透明な球体。
初めて会った人の作品で、スマートフォンから操作できるボールというかロボットだった。
操作させてもらってると、一緒に踊ってる絵が浮かんで、開発者の方に
「これください。買います」とお願いしてしまった。
「いいですよ」快諾してもらって嬉しかった!
球体人は成長を続けていて(開発が続いていて)、その次に出合った時は
さらにスムーズにコミュニケーションが取れるようになっていた。
ひとつじゃ不安。最低ふたつ、二人は必要だ、と思って
二つくださいとお願いして、了解してもらった。



この球体人(私の中では一つのキャラクターになっていた)と踊りたくなったので。
10年前でも体力的に厳しくてあきらめたのに、今なんてさらに大変だし、時間とか練習とか
どうするというのはあるけれど、年を取ることも体が衰えていくことも避けられないなかで
今できることって何だろう。



Maker Faireに出展といってよいのかこれが作品なのか、わからなかったけど
Betawiの伝統衣装にLEDランプをつけて踊ってみた。
伝統芸能と今が少しだけ近づいたら良いなあと思って。Betawiを選んだのは、
Jawaと中国とマレー文化とオランダ(ヨーロッパ)がまぜこぜになったうえで発展してきた
文化だから。(首都ジャカルタ伝統芸能でもある→あまり知られていない)
勝手だけどこの地域のものなら何を混ぜても受け入れてくれそうな気がしたから。



この球体人と一緒に踊りたい、ジャカルタで小さな友達と一緒に踊っているのも見てみたい。
できるかなあ。できたらいいなあ。
ジャムー売りのおばあちゃんと球体人が出会う。
顔のないひと。これ作らないと。(呼吸できるように、体力あるかな)
球体人とWayang。
Wayangはもともとイスラム教を広めるために利用、発展したと聞く。
当時は最新のテクノロジーでもあったはず。(光と影、自由に動く人形)
人が信じたいもの。



知らないものと出会うってどんな感じだろう。
小さくて丸くて。少なくともグロテスクではなく、細胞を思い出す。
透明な球体の中には、黄色いタイヤがくるくると動く。この黄色のアクセントが愛らしい。
昔からの約束事に従ってきたひとが新しいことに出合う。
突然に。目の前に。
球体人とWayang。どのキャラクターが似合うんだろう。

デング熱ではなかったけれど。

水曜日の夜、大渋滞の中徒歩で帰宅中、珍しく今すぐ何か温かい汁物を食さねばならないと身体が訴えてるので、近所の日本食レストランでご飯を食べて家に戻ったのです。
帰宅時間の雨上がりはとにかく混む、アプリケーションで呼ぶバイクもタクシーも待てども探せども見つからない。一般のタクシーはもちろん、バスやミニバスも一杯。乗れたとしても1時間以上かかることは間違いないくらいの渋滞に、移動手段の最強は徒歩です。もちろん車道を歩き、車、バイクの間をすり抜け、場所によっては中央分離帯を歩く冒険をするのですが、会社から家まで歩くと45分。車持ちの方から「あの距離、昨夜は1時間半以上かかったよ」と言う声を聞くと、歩いて正解!と心の中で喝采をあげることもあります。(笑)
この日も雨上がりでぬかるみをいつものようにガシガシと歩いて、ご飯を食べて帰りついたのですが、なんだか身体が重いかなと。歩いたからかな?なんだか変だ思いつつ寝落ちしてしまったのですが、翌日起きたら、もう全身が痛くなっていました。
朝寒さに震えて起きたのもあります。これは寒いのではなくて、悪寒だろう、身体が痛いのは関節痛だろう、どんどん悪化していく体調だったので、歩けるうちに病院!でした。
疑ったのはデング熱。過去にもかかったことがあるので、悪化してデング出血熱になったらちょと部屋が散らかってる…と少し恥ずかしい気もある、片付けた方が…いやそれって命に危険が及んだ後の話だよ、と色々自分に突っ込みを入れながら病院に向かいました。
歩いていける距離に日系のクリニックがあり、提携する入院もできる病院もすぐ近く。小雨でこれまた移動手段を足に頼らざるを得ない(爆)中、クリニックで見てもらい、血液検査と普段なら絶対しない点滴を受け(良いお値段です)、点滴中ポチポチ仕事しながら血液検査の結果を見ると、白血球数値が下がっていました。まだ通常の範囲内ではあったけどこれは良くない。出された薬もデング熱の時に出される解熱剤。やっちゃったかなあ、明日はちょと大事な会議のサポートあるのに…と心配になりました。数値は確かに低いけど、まだ大丈夫、もっと低くなったらデング熱だから。2日経ったらまた検査しましょうということでした。
この時点で点滴経由の解熱剤が効いたのか、ご飯を食べる気力と体力があり、今のうちにとお昼ごはんをしっかり食べて、水分補給用の飲み物、ヤクルト、アイス、果物などを用意して準備OK!
帰宅後はとにかく寝てました。関節痛が酷くて声が漏れるくらい。寝て食べて寝て。頭痛もひどいし、南国ですが寒い寒い。身体の痛みが強くて動けないないくらいの倦怠感。何かあったら助けを求められる準備をしたから良いものの、こういう時、日本であっても海外であっても、一人暮らしは大変です。
ご飯は携帯電話のアプリケーションでご飯を注文、バイクタクシーに買ってきてもらう。(送料無料なのです)セキュリティの関係で予約したご飯はアパート受付まで取りに行かないといけないので、動けそうと思う時に注文して取りに行く、ほんに都会に住んでいて良かったと思います。
仕事も大学も休んで眠り続けること3日目。目が覚めたら、少し身体の痛みが引いてきて、あ、峠を越えたかなと。これなら病院に行って検査できる。検査してみると、数値は変わっていませんでした。白血球の値も低いまま、まだぎりぎり正常値。熱も引いてきて、関節の痛みもほとんどありません。翌日めまいはするものの会社に行くこともできて、なんとか通常営業に戻りました。なんだったんだろう?
海外で一人暮らしというのは、病気になった時思うことがある、そのことも含めて生活、かなと改めて考えました。口に入れるものを少し気をつけるようになって生活するようになりましたが、気にし過ぎも良くないなと。
そろそろ、人生の終わりを考える時期に入ってきたこともあります。どこで迎えるのか、あと残り時間をどんな風に過ごすのか、何をし残しているか、何をやりたいのか。たまに病気になって真剣に考える時間が持てたなあと思います。

スマトラ鉄道 こと始め

以前から興味のあったスマトラ鉄道のほんの一部に乗ってきました。
元々電車乗り物が大好きで、飛行機で行けるところをフェリーで移動したりディーゼル車や電車を使ってどこかへ行くことをしています。お金がないけどどこかへ!日本にいた時は、18切符を利用して大垣経由の関西まで、北は乗り継いで北海道までなんてことをしていました。
インドネシアではお金がなくて、ジョグジャカルタからジャカルタ、スラバヤまでエコノミーの汽車で行ったりバスで行ったり。今でもバンドンやチレボンに行く時は、ディーゼル車(汽車?)で行きます。ジャカルタ近郊は電化されているので、電車にも乗ります。日本から送られてきた中古の懐かしい電車が走っていて、とても頼もしいのです。
今回は、北スマトラのメダンに行ってきました。インドネシアの中では北に位置しますが、マレー半島のクアラルンプールよりもっと北。ジャカルタからおよそ1400km。結構遠い。
メダンは前から気になっていたところで、pernakan=プルナカンと呼ばれる華僑の末裔が多い、といいます。マレー半島から遠くはフィリピンまでその人達の交易は広く各地に点在していますが、メダンまで行ってしまうともう文化圏はマレー文化になり、ジャワ島文化に慣れている私にとっては充分異国になるだろうと考えていたこと、今回ちょっとしたチャンスが出来たこともあり、出かけてみました。こちらの話は別に書きます。

メダンの空港から市内まで、空港線があるのです。まだ比較的新しいこと、何と言っても時間通りの運行、空港からタクシーを探して…という言葉の難関を超えずに、とりあえず市内まで行けるというのは、旅行するにはもってこいです。

空港はまだ新しくて使い勝手の良さそうな空港でした。
どこかに似ている、香港の空港のもっと小さくしたような…個性はなく現代的な空港に直結しているのが駅でした。まだこれから店など入るかのような少しがらんとした駅でしたが、チケットは入ってすぐのカウンターで10万ルピア。指定席です。名前を名乗る必要がありますが、それはレシートに席と名前、発車時刻が印字されるためです。割と出発直前になってからホームに入ることになり、レシートと一緒に渡されるカードで改札を通過、ホームでは係官がレシートを確認、席を案内してくれました。
車内はクアラルンプール空港から市内までの特急?に似た感じで、大型トランク置き場あり、コマーシャルの流れる画面あり。乗り心地、清潔感も良いです。
ただ速度は比較的ゆっくりで、もう少し早く走ることができるような気もするけれど、30分程で終点メダン駅まで到着できました。本数も多く、往復合計で40本。これならタクシーや車で移動する必要なさそうな気がします。もちろん空港には駐車場完備ですが、ほとんどの観光客は空港へ向かうのならば、メダン市内からメダン駅までタクシーなどで移動して、鉄道を選ぶ方が楽だと思います。ジョグジャカルタも本数が少ないけれど、行こうと思えば鉄道(Pramex)でTugu駅(繁華街の真ん中)から空港へ向かうことができます。ジャカルタでも空港駅から、Manggarai駅、そしてKota駅までの空港線が着工されています。スカルノハッタ空港から電車で移動できるようになったら、どんなに楽かなぁ!
(注:現在は車が中心で、渋滞で時間が読めません。タムリン通りから早くて30分程、渋滞なら3時間かかることもあり)

メダン駅にはこの空港線の他にローカル線も走っていて、エコノミー車が先に停車しているのを確認しました。空港線とはプラットホームが離れているので、一旦改札を抜けないとそちらには移動できません。駅を出ると目の前が大きなショッピングモールで、ここだけ見ていればジャカルタでもおかしくない。高級ブランドがテナントとして入っている大きなモールです。ローカルフードが少し苦手な人はここで一息つけるし、ここからメダン市内の良いホテルは比較的近くでした。私は駅から徒歩圏内のホテルに泊まることになりました。
初めての地に足を運ぶ際、駅と飛行場が直結していると移動も宿も駅を中心に考えることができます。ここメダンから可能な観光地はトバ湖があり、またメダン駅から終点路線はRantau Prapatでおよそ6時間。終点がどんなとこかわかりませんが、Suzuya Hotelがあるらしい。どうしてSuzuya?
終点まで行かなくても鉄道の旅も好きなので、今度メダンに行く時は、このローカル線に乗ってみようと思います。